ミシガン番外編 オハイオ古代遺跡の謎

 アメリカには世界に誇る大自然は多々あれど歴史的遺跡となると、エジプトのピラミッド、イギリスのストーンヘンジ、ナスカの地上絵などに代表される古代遺跡はこの新しい国のどこを探しても存在しないだろうと諦めていた。ところが、週末の小旅行を検討していると、オハイオに興味深い古代遺跡があるらしいではないか。しかし聞いたこともない。果たして一見に値するのか、期待を理性で抑えながら週末旅行に出発した。
 結論から言おう。ミシガンの目と鼻の先に、ナスカの地上絵を彷彿とさせる巨大な蛇の地上絵や、日本人にはDNAレベルの懐かしさを覚えるような古墳群を目の当たりにすることができ、感動と興奮の旅となったのだ。


アメリカ合衆国先史時代(オハイオ、ミシシッピ川地帯の古代文化)について

アメリカの先史時代は、時期と地域で様々な分類法があるが、オハイオ・バレーを中心とした地域においては、以下のような流れになる。(ページ下部の年表も参照)

  •  前期ウッドランド期:アデナ文化(BC800年~AD100年)
  •  中期ウッドランド期:ホープウェル文化(BC100年~AD500年)
  •  後期ウッドランド期:初期ミシシッピ文化(AD500年~AD1200年)

ウッドランド期の文化の特徴として、文字を持たないこと、ほぼ定住がはじまったこと(資源が無くなると移動した)、この時期以降には見られないマウンド(墳丘)やアースワーク(土塁)の作成を行ったことなどが挙げられる。そのため、この時期の古代人はマウンド・ビルダーとも呼ばれる


ホープウェル文化 国立歴史公園

HOPEWELL CULTURE National Historical Park
16062 State Route 104, Chillicothe, OH45601

https://www.nps.gov/hocu/

 アナーバーから南下すること約250マイル、車で約4時間。オハイオ州南中央の初代州都チリコシChillicothe近郊の林と草原と畑以外には何も見当たらないプレーリーに、古代人が建造した古墳遺跡を擁するホープウェル文化国立歴史公園はある。ナショナルパークと名打ってはいるが、半径数マイルの地域に点在する5箇所のホープウェル文化時代の遺跡サイトを緩くまとめた呼称にすぎない。その一つ、Mound City Group遺跡が最小でビジターセンターも併設されており、レンジャーによるガイドツアーもあるのでお勧めだ。(他は無人でどこが敷地なのか分からないほど広大でつかみどころが無い。)
 ビジターセンターの裏手に進むと、手入れの行き届いた芝に覆われた滑り台程度の高さの丘が、ぽこぽこと無作為に点在する長閑な風景が目に入る。これらはマウンドと呼ばれる墳丘墓で、フットボール場10個分の広さの敷地に合計23個もある。敷地の周囲は、高さ1メートル弱の土手のようなアースワーク(土塁=土の堤防壁)によって四角く囲まれている。緩やかな円形の丘はピラミッドのような威圧感は無く、高松塚古墳を彷彿とさせどこか懐かしい。そのまま良質のゴルフ場になりそうな地形だが、マウンドは死者を埋葬した神聖な場所なので登ることは厳禁だ。これほどマウンドが密集している場所は珍しく、マウンド・シティーと呼ばれる所以であるが、日本の大規模マンションぽい命名が面白い。あまりにもなだらかで写真映えしないのが残念だ。
 マウンド見学後にビジターセンターで、発掘された副葬品、ホープウェル人の埋葬儀式の模様や生活様式の展示を見ると、タイムワープしたように実感が沸く。Mound City Group遺跡は、第一次世界大戦時に軍の訓練場として使用され多くのマウンドが破壊されたが、1920年代に発掘調査と修復が行われ、1923年にナショナルモニュメントに指定されて以降は保存と教育活動が続けられている。現在、UNESCOの世界遺産登録に申請中である。


ホープウェル文化(BC100~AD500)について

 オハイオ州を中心に2200年から1500年前に繁栄した。縄文土器作成や狩猟採集、植物栽培を行った。ホープウェルの名は1891年にマウンドが発掘された農園の所有者の名前に由来する。マウンドやアースワークには居住の痕跡が無いことから、儀式や集会場としてのみ使用されたと考えられる。木枠の土台の上で死者を弔う宗教儀式を行った後にすべてを燃やし、上から盛り土をした。発掘品には五大湖周辺の銅や銀、東海岸やメキシコ湾のサメの歯や貝、イエローストーンの黒曜石、アパラチア山脈の雲母などが使われており、当時の人々の驚くべき交易範囲の広さがわかる。


サーペントマウンド

 次に訪れたのは、マウンド・シティーから西に1時間弱、シンシナティから70マイルほど東、Brush Creek Valleyを望む高台に位置するサーペントマウンドだ(p.10写真)。駐車場や小さなビジターセンターの小屋は地元民らしき白人系アメリカ人がひっきりなしに訪れており、結構な人気だ。一見大きな木々に縁どられた細長い広場は、目を凝らすと3メートルほどの幅で芝生が盛り上がり帯状を成して蛇行しているのがわかる。物見やぐらに登って上から見下ろすと、大蛇の形である。先端は大きく開けた口が丸い卵を飲み込むところであり、末端は3重に丸まった尻尾で終わる全貌は、セスナにでも乗って上空から見ないと把握不可能だ。ナスカにも匹敵する地上絵がこんな身近にあるとは!にわかには信じられず鳥肌が立つ。
 サーペントマウンドは直訳すれば蛇塚だ。地面に盛り土で動物を形作ったものをエフィジー・マウンド(形象墳)と呼ぶ。サーペントマウンドは全長1376f(419m)、高さ1~3f(30cm~1m)。蛇の胴体の幅は一番太いところで6f(3m)あり、蛇を模ったエフィジー・マウンドとしては世界最大の大きさとのことだ。

サーペントマウンドの3つの謎―いつ?だれが?なぜ?

 サーペントマウンドはいつ、誰によって、何の目的で作られたのか、実は現在でも大きな謎に包まれている。その形からして、大蛇かトカゲが口を開けて卵を飲み込もうとする瞬間、あるいは太陽と彗星または隕石、さそり座を模したもの(もしくは何らかの天文学的事象)、建造物の土台の残骸にすぎない、など諸説ある。頭の向きは夏至の日没、尻尾は冬至の日の出の方角を指し、体の蛇行は月の運行と一致しているとのことだ。
 近隣のマウンドは埋蔵品も発掘され目的と時代が特定されているが、サーペントマウンドの中からは埋蔵品は全く発見されず、何のために作られたのか不明だ。近隣の墳墓と関連した儀式等集会のシンボルとして使われたのではないかと考えられている。はたまた、上空からしか把握できない大きさのエフィジーを作る目的は、古代人が宇宙人と交信するためだったのだろうか。サーペントマウンドのある場所は巨大隕石が落下してできたクレーターが隆起した地形で地質学的にも珍しいポイントとのことで、謎は深まるばかりだ。
 作られた時代も特定が難しく、18世紀の発掘調査以来二転三転している。近隣にあるマウンドと同時代と考え、BC800~AD100のアデナ文化の遺跡と考えられてきたが、1991年実施の放射性炭素利用の発掘調査によりそれが覆されAD1100頃の建造と断定された。しかし2014年実施の新型放射性炭素利用の発掘調査により、再度、当初の説と同じくBC300年頃、アデナ文化時代に造成されたとの結論を得て現在に至る。
 余談だが、「サーペントマウンド」を日本語で検索すると数々のオカルト系サイトにヒットするので驚いた。オカルト系には人気絶大のスポットのようだ。中には地下通路(磁場による瞬間移動トンネル)で日本のあるポイントと繋がっていて宇宙人の移動手段だった、というものもあり、読みだすときりが無い。

参考 https://en.wikipedia.org/wiki/Serpent_Mound


アデナ文化(BC800年~AD100年)について

 オハイオ州を中心に栄えた文化。のちのホープウェル文化(BC100 ~AD500)やミシシッピ文化(BC500~AD1200)などウッドランド期の基盤を築いた。マウンドや高度なアースワークを造成し、宗教儀式を行い、死者を埋葬したことが分かっている。マウンドの数はオハイオ内を中心にインディアナ、ケンタッキー、ペンシルバニアなど周辺地域にも数千個にのぼったと推測される。マウンドに木造の建物を建てそこで葬儀を行った後、すべてを燃やして土を盛り、その上に新たに建物を建てて葬儀に何度も再利用した。ミシシッピ文化時代のマウンドにもアデナの再利用が見られる。植物栽培、土器、精巧な工芸品の作成を行い、工芸品からはホープウェル文化同様の交易範囲の広さがわかる。工芸品には動物を模った置物やネックレス、人型のパイプ、涙目の形の装飾品などがあり、馴染みのある現在のアメリカインディアンの工芸品に受け継がれている。
 巨大なマウンド群は時代が移り変わると忘れ去られて侵略者に破壊され、農耕地開拓で崩されてしまったが、小物に託されたスピリチャルな想いは2000年以上の時を超えて現代まで受け継がれていることに感動を覚えた。


足をのばして…

今回は古代遺跡見学の前後にHocking Hills State Park http://www.hockinghills.com/での渓谷ハイキングやシンシナティ市でスーパー Kroger1号店を見学した。こちらもお勧めだ。
http://www.thekrogerco.com/about-kroger/history-of-kroger

晴子