建築家ミノル・ヤマサキの名前を初めて耳にしたのは、2001年9月11日のテロの直後だった。世界中の目を釘付けにしたあの世界貿易センター(WTC)の設計者としてメディアに紹介されたのである。その時彼は既に他界していたが、よくも悪くも一躍有名人になってしまった。ニューヨークの、いやアメリカのシンボルとも言うべき建物を設計したのが日本人だった。テロの数年前にWTCを観光で訪れていた私の脳裏にミノル・ヤマサキの名は強く刻まれた。
その後デトロイト近郊に引っ越した私は偶然再び彼の名前を耳にした。ヤマサキはこのデトロイトにオフィスを構えていたというのである。そしてその生涯をこの地で終えたと。彼はWTCの他にどのような建物を設計したのか、そして日系二世として生まれた彼の生涯はどのようなものだったのか、私なりに調べてみた。
建築家ミノル・ヤマサキ(1912〜1986)の軌跡
ニューヨークで建築家としてデビュー
日系移民の子としてシアトルに生まれる。苦学してワシントン大学で建築を学び、優秀な成績で卒業するが、建築関係の仕事には就けず、職を求めてニューヨークに行く。最初は陶器のノリタケで梱包の仕事などしていたが、ついに設計事務所に職を得る。ニューヨークにいた10年の間に、エンパイアステートビルを手がけた建築事務所やロックフェラーセンターを作った建築事務所で働いた。
デトロイトへ移住—独自のスタイルの模索
1945年、ニューヨークでの経歴を評価され、自動車という当時のハイテク産業で活気づくデトロイトの建築事務所にヘッドハントされる。チーフデザイナーとして設計を任されたヤマサキの手がける建築には彼独自のスタイルが生かされてくる。当時流行のインターナショナルスタイル(装飾を廃し、機能的単純明快で力強いイメージの建築)の影響を受けながらも、何よりも人に心地よい空間を作ることに重きを置いた。1956年に完成したランバート・セントルイス空港は、画期的なシェル構造により、これまでにない巨大な空間を実現して訪れる人の目を奪った。それはまさに空のグランドセントラル駅(ニューヨーク)のようだった。この空港の設計でヤマサキはアメリカ建築家協会の第一名誉賞を受賞した。
Serenity と Delight
建築家として有名になったヤマサキだったが、過酷な仕事は彼の健康を蝕んだ。胃潰瘍の大手術の後、事務所を独立したヤマサキは、日本での仕事が入ったこともあり、これを機に日本、アジア、ヨーロッパへ建築の視察旅行に出る。この旅行がその後の彼の建築理念を明確なものにしていく。特に桂離宮や龍安寺など日本建築と庭園には感銘を受け、「Serenity(静寂)」「Delight(歓喜、驚き)」そして細部にこだわった美しさを追求して行くことになる。この建築理念を最も反映していると言われるのがウェイン州立大学内のMcGregor Memorial Community Conference Centerである。これにより彼は2度目のアメリカ建築協会第一名誉賞を受賞した。
イスラム建築の影響
ヤマサキが愛したのは日本建築だけではない。タージマハールやアルハンブラ宮殿などのイスラム建築にも大きな影響を受けている。特にモスクなどに見られる尖塔アーチの形態は彼の建築に多く見られる。下記の世界貿易センタービルの外壁にもこのアーチを採用している。建物の周りに作られた池や、壁に見られる模様にもイスラム建築の影響が伺える。
このためか、サウジアラビア政府からの熱心な依頼があり、ヤマサキはダーラン国際空港を設計することになった。この建物は、アラブ的なデザインの美しさと熱さを遮るなど機能にすぐれた設計で高い評価を得た。その後もサウジアラビアで多くの建物の設計を手がけた。
巨大プロジェクト 世界貿易センタービル
数々の賞を受けていたが、まだ中西部の中小設計事務所に過ぎなかったヤマサキに、ニューヨークのシンボルともいえるWTCの設計が任されたというニュースは世界を駆け巡った。ヤマサキは「タイム」の表紙を飾ることになり、その名を世界的なものにした。しかし、そのプロジェクトは彼がこれまで経験したことのない超巨大プロジェクトだった。コストや収益を第一に考える発注者のニューヨーク港湾局と、独自の建築理念を貫こうとするヤマサキとの間では何度も衝突し、結局は110階建ての二棟の高層タワーという形に落ち着いた。当時それは世界一を誇る高さであり、人に威圧感を与える高層建築を嫌っていた彼には苦渋の決断だった。それでも、外壁を覆う、空に伸びる何本もの金属製の柱は、ビルの強度を保ちながら直線的な機能美を意図したもので、ヤマサキの主張が受け入れられた。またヤマサキが採用したチューブ構造(ビルの中心部に柱、ライフライン、エレベーターを配する)は、より広い賃貸スペースを必要としていた港湾局を満足させた。だが、1976年の完成後、WTCはニューヨークの街並にそぐわないあまりにシンプルな建物として非難を浴びてしまう。確かに世界一の高層建築建設にあたり、ヤマサキは彼がモットーとして来たヒューマンスケールの建築からは遠ざかってしまったとも言える。しかし、微妙に位置をずらして建てられたツインタワーは、見る位置によりまた光の具合によりシルエットが異なり、ニューヨークの摩天楼に豊かな表情を与えていたことは否めないと思う。
WTC後の建築
シンプルな中にも人のぬくもりや繊細な美しさを求めたヤマサキの建築は、WTCを契機に、より機能美を追求したものに変わったと言われる。景気後退等の事情で仕事の依頼も減り、ヤマサキの事務所は規模を縮小していく。そんな中、彼が彼らしいデザインを求め、最後のプロジェクトとして取り組んだのが、滋賀県の山中にある新興宗教団体神慈秀明会の教祖殿と言われている。緑豊かな美しい自然の中に建てられた、富士山をイメージしたという大屋根を持つ建物である。ヤマサキは彼の著書の中でこの建物を「one of the most exciting projects that I have had the privilege of working on」と述べて、自分でも評価している。
ミノル・ヤマサキの作品を訪ねる
デトロイト近郊にあるミノル・ヤマサキの建築をいくつか訪ねてみた。
McGregor Memorial Community Conference Center
Wayne State University; Detroit, MI 1958年完成。
ヤマサキの作品の中で、最も彼の建築理念が反映されていると言われている。二階建ての白くシンプルな建物だが、幾何学的なデザインのガラス張りの部分との対比が美しい。三角形をモチーフにしたデザインが、庇、スカイライト、アルミニウム製の扉など随所に見られる。吹き抜けのエントランスホールにはスカイライトから光が差し込む。建物の前には池があり、そこにはMcGregor Memorialの姿が映し出されていた。この池は2013年に修復されたばかりである。
College of Education Building
Wayne State University; Detroit, MI 1960年完成
McGregor Memorialのすぐ隣にある建物。そのデコレーションケーキのような外観から「Wedding Cake Building」とヤマサキ自ら言っていたという。建物を巡る回廊に光が射すと美しい影が生まれる。
Helen L. Deroy Auditorium
Wayne State University; Detroit, MI 1955年完成
外壁四面すべてに巡らされたアーチ型の繰り返しパターンが印象的。窓がないのでそのデザインが際立っているように思う。
Temple Beth El(ユダヤ教礼拝所)
Birmingham, MI 1974年完成
ユダヤ教の礼拝所の初期の姿であり、神聖な意味を持つ天幕(テント)の形をイメージした外観が印象的。曲線を描きながら天空に聳え立つ様は堂々としているが、どこか優しい。礼拝所の中に入ると思わず息をのむ。柱のない広い空間。天幕の一番高い部分は楕円形のスカイライトになっていて光が差し込む。天幕の裾の部分はぐるりとガラス窓が取り囲み、周りの緑が目に入る。天幕の部分がこの礼拝所全体を包み込んでいるようで、何か安らぎを感じる。正面の祭壇には縦に棒状の木材を組み合わせたものが天井まで配され、白を基調とした空間にあって自然と視線を引き寄せる。ヤマサキの建築理念の「Serenity」と「Delight」が確かにここにあるのを感じた。この礼拝所が後に神慈秀明会の教祖殿のデザインの元になったと言われている。
* この他のヤマサキの作品(ミシガン)については下記参照。
http://michiganmodern.org/architects-designers-firms/architects/minoru-yamasaki/
ミノル・ヤマサキの生涯
160センチに満たない小柄な男のどこにそんなエネルギーが潜んでいたのか。何度も胃潰瘍のため入院しながらも、妥協を許さず働き続けたヤマサキ。何が彼をそこまで駆り立てたのか、彼の生い立ちから探ってみたい。
働き者の父の後押し
ヤマサキは1912年、移民としてアメリカに渡った常次郎とハナの長男としてシアトルに生まれる。当時の日系移民は人種差別のためいい仕事には就けなかったが、常次郎は靴屋(Nordstrom)の倉庫係として懸命に働き一目置かれるようになる。母方の叔父の影響で建築家への夢を持ち始めたヤマサキだったが、家計は苦しく彼は高校卒業後就職することを考えていた。しかし下積みの仕事に甘んじることをよしとしない父は断固として大学進学を主張。ヤマサキは父の言葉に従い、ワシントン大学で建築を学ぶことになる。
アラスカでの過酷な労働
ヤマサキは学費を捻出するため、大学時代夏の間はアラスカの鮭缶工場で働いた。そこは18時間労働を強いられた上、賃金はアメリカ人の3分の1という過酷な職場だった。しかし、大恐慌のさなか日系人が働けるところは限られていた。人間らしい扱いをされなかった過酷な体験は、人が快適に過ごせることを第一に考えたヤマサキの理念の礎になったのかもしれない。また過酷な労働を堪え抜いて彼は人並み以上の体力をつけることができた。
努力の人
大学在学中、建築家として必須の絵や設計図が得意でなかったヤマサキだったが、建築家になりたい一心で毎日ひたすら描き続け、短所を克服した。後にニューヨークで大学院の夜学に通っていた時には、大学で水彩画の講師をするまでの腕前になっていた。
結婚
ヤマサキはニューヨーク時代、ジュリアード音楽院でピアノを勉強していた日系二世のテルコと結婚し、彼女との間に一女二男をもうけている。しかし、デトロイト移住後、ヤマサキが仕事に忙殺され家庭を顧みなくなったことで、二人は離婚する。その後ヤマサキは2度再婚しているが、すぐに離婚。結局8年後に再び最初の妻テルコと再婚する。同じ日系二世として育った彼女だけがヤマサキの生き方を受け止められたのかもしれない。
人種差別
日系二世として生まれ、太平洋戦争中ニューヨークに居たヤマサキにとって、人種差別は避けられない問題だったが、決してひるむことはなかった。デトロイトに来てからも高級住宅地Bloomfield Hillsに家を買おうとして断られ、Troyに農家を買い求め改装して住んでいる。彼が念願のBloomfield Hillsに家を建てられたのはWTCの設計を任されてからである。
晩年—取り戻した家族の絆
WTC以後ヤマサキのビジネスは縮小して行ったが、それは家族との絆を取り戻すにはよい機会だった。休日には子供や孫に囲まれ楽しそうに過ごすヤマサキの姿が見られたと言う。しかし長年酷使した身体はついに肝臓がんに冒され、ヤマサキは73年の生涯を閉じる。
日系二世として生を受け、貧しい生活から這い上がり、建築家としての名声とその作品をこの世に残すことができたミノル・ヤマサキは、いわゆるアメリカンドリームを実現させた人物と言えるのだろう。しかしその道のりは平坦なものではなかった。賞賛以上に常に批判と中傷にさらされる建築家という仕事、そして細部にまでこだわり妥協を許さない彼の仕事ぶりが、彼自身を追い込み、健康を蝕んでいった。家庭も崩壊寸前、周囲との軋轢も少なくなかった。しかし、彼が残した建築からはそのような苦悩ではなく、静寂や温かさが伝わってくる。それは建築家としては何よりの幸せと言えるのだろう。
テロの攻撃を受けて崩れ行くWTCの姿に呆然としながら聞いたミノル・ヤマサキという名前。今回彼の歩いて来た道をたどり、建築家として日系二世として20世紀という激動の時代を生き抜いた男の生き様が心に残った。
参考文献
「A Life in Architecture」 Minoru Yamasaki
「9・11の標的をつくった男」 飯塚真紀子 講談社
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