メイさんはいつも薄着でジーンズにスニーカーといった出で立ちで、背筋をのばして早足にたったと歩く。ショートヘアーがお似合いの小柄でとてもチャーミングな女性だ。もと看護師という職業柄かいつも健康的な食事を心がけている。肉はあまりとらず、オーガニックの野菜や玄米、オートミールやナッツ類が大好きだ。皆の集まりには必ず自分でカットした生パイナップルを持ってきてくださる。メイさんは多忙だ。ミーティングやレクチャー、人権問題や人種差別問題の講演会、会食など、毎日予定がぎっしり詰まっている。93歳という年齢が信じられない。
私とメイさんは、アナーバー地域のアメリカ人と外国人女性の交流の場である“インターナショナルネイバーズ”で知り合った。日本語でディスカッションをするグループでご一緒している。日系アメリカ人のメイさんは、日本語を聞くほうは良いが、話すのは難しそうなので、ディスカッションの時は皆が日本語で話すのを聞きながら、時々英語で貴重な意見をくださったり、するどい質問を投げかけてくださる。
メイさんの体験談は、図書館での講演会(2010年)や高校のプロジェクトによる動画ドキュメンタリー(2015年)などで紹介されているが、残念ながら日本語によるものが無い。そこで今回、改めてメイさんに個人的にインタビューをさせていただき、英語資料からの情報も加えてご紹介する次第だ。ご興味をもたれた方は、ぜひ本記事最後に記したサイトをご覧になっていただきたい。
日系アメリカ人強制収容所の概要
第2次世界大戦中、西海岸及びアリゾナ州南部の日系人はすべて強制収容所に送られた。その数は約12万人にのぼり、その7割がアメリカ生まれで市民権を持つ二世だった。真珠湾攻撃による日米開戦の翌年である1942年、大統領令9066号が発令される。これにより上記指定地域内のすべての日系人に強制立ち退きが命じられた。日本に最も近いこの地域の日系アメリカ人は諜報活動を行っている可能性があり、国家の安全保障の脅威となるという理由からだ。しかし、これらの地域は日系人が最も多く経済的に成功していた地域でもあった。
開戦から40年後の1982年、「戦時市民転住収容に関する委員会」は、「強制収容は軍事的必要性によって正当化することはできない。強制収容は人種差別であり、戦時ヒステリーであり、政治指導者の失政であった」と結論付ける調査報告書を提出した。これをうけ1988年、レーガン大統領によって署名された「1988年市民の自由法(通称、日系アメリカ人補償法)」において、アメリカ政府は、強制収容が重大な基本的人権の侵害であったことを認めた。
そして、日系アメリカ人の市民としての基本的自由と憲法で保障された権利を侵害したことに対し、議会は国を代表して公式に謝罪した。
メイさんは1922年5月13日、カルフォルニア州チコで生まれた。ハワイ生まれの日系人の両親と弟の4人家族だ。父は青果業を営んでおり、ロータリークラブの会員として地域貢献にも携わる名士だった。母は、遠方からお坊さんを家に招いて定期的に集会を開く熱心な仏教徒だった。幼い頃メイさんも一緒にお経を唱えていたそうだ。母は、宗教はとても大切だとの考えから後にキリスト教信者となり、メイさんも日曜学校に通うようになり、様々な宗教が身近だった。メイさんは、幼い頃からピアノやダンスを習い、母には、キッチンの手伝いはいいからピアノの練習をするようによく言われて育った。高校卒業後、サンフランシスコ近郊の歴史ある名門女子大学ミルズ・カレッジに進学し、家族の住むチコを離れ寮生活を始めたメイさんは、1941年、大学2年生になっていた。
Q)真珠湾攻撃のあった日の様子を教えて下さい。
A)その日は日曜日で大学敷地内の教会の礼拝から歩いて寮に帰る途中、先生がかけよってきて、今すぐ寮の部屋に戻って部屋から出ないようにと告げられました。ラジオのニュースを聞きながら体の感覚が無くなったのを覚えています。その後、日系人の夜間外出禁止令が出て、目の前の図書館にも行けなくなりました。その後、日系人の強制立ち退き令が出たため、家族の元へ帰りました。離れていると家族と別の収容所に送られてしまうことになるので。
Q)強制収容所に行く当日の様子は?
A)母は持物を数日前から準備していましたが、限られた時間でしかも手に持てる範囲なので大したことはできません。駅までどのように行ったのか記憶にありませんが、後にハイスクールの卒業50周年同窓会があった時、クラスメートの男の子が、自分はあのときに兵士のひとりとして駅で警備の任務にあたっておりその場にいた、と打ち明けてくれました。
Q)強制収容所までの移動は?
A)窓を覆って外が見えないようになった列車でした。何時間かかったのか、その時のことは良く覚えていません。たぶん感情をシャットダウンしてしまっていたのでしょう。何が起こるかわかりませんでしたが、殺されるかもしれない、という恐怖は感じませんでした。
メイさんと家族はカリフォルニア州最北端のTule Lake収容所に送られた。そこは人里離れた何も無い荒野の真ん中で、夏は酷暑、冬は極寒だった。
Q)強制収容所の様子は?
A)何百もの軍隊のバラック(かまぼこ兵舎)です。1棟は20フィート平方ほどの数部屋に分かれており、家族ごとに1室が割り当てられますが、真ん中にだるまストーブと軍用の鉄のコット(折畳み式簡易ベッド)があるだけでした。トイレや食事は別の建物に行き列に並ばなければなりませんでした。トイレはドアも無いものでしたが、日本人気質でしょうか、やがてだれかがカーテンをつけてプライバシーを保てるようにしたりして、なんとか快適度を増す工夫を重ねました。食事は口にしたことのない内臓系の煮もので閉口しました。後に母は時々部屋のストーブで簡単な調理もするようになりました。物資は支給で限られていましたが、飢えることはありませんでした。後に内部にコープ販売部ができたり、シアーズローバックデパートのカタログ販売を利用することも可能になりました。
Q)強制収容という人権侵害に抗議の声をあげる者はいなかったのですか?
A)日系社会の指導的立場にあった人物は収容前に理由も無く逮捕されました。収容された人々も一世、二世の立場からアメリカへの忠誠度や考え方も様々で、収容の経験をきっかけに家族が仲違し一家離散したケースもたくさんあります。収容所から軍隊に志願した有名な日系人422部隊もいます。
強制収容所はK-12の学校も作られた。幼い子供たちにとっては、同じ日系人の子供ばかりの生活は楽しくサマーキャンプのような感覚だった。鉄条網に囲まれ四六時中兵士に監視されている異常な状況下、大人は少しでも子供が快適に普通の生活を送れるよう努めた。徐々にダンスパーティーや趣味の会もできた。成人は教師や医者、事務職、キッチンなど敷地内で職業につき、給与も支給されたが非常に低賃金だった。また、収容人員が危険でないことがわかると、一部の人は敷地の外の石炭運びなどの仕事に出された。メイさんの父親は慣れない肉体労働に従事し体を壊した。メイさんは、はじめは通訳事務のような仕事につき、その後看護師補助を務めた。この時に初めて出産に立ち会った感動から、将来看護の道に進むことを決めたそうだ。1年半の収容後、メイさんはクエーカー支援団体の援助により、収容所を出て、ニューヨーク州シラキュース大学看護学科に編入できることになった。
クエーカー教徒の季刊誌“Friends Journal”によると、1942年5月29日、クエーカー教徒の団体が中心となり、National Japanese American Student Relocation Councilを設立。強制収容によって学業が中断された大学生や収容所の高校を卒業した者を、日系人強制立ち退き指定地域より東側の中西部や東海岸の大学に入学・編入させる活動を行った。政府や受け入れ大学との交渉、居先の世話、25通もの必要書類や推薦状の取り寄せ、進路指導に至るまで、その内容は多岐に渡り、複雑で困難な作業だった。1944年8月末に日系人の入学規制が撤廃されたため、1946年6月末に組織は活動を終了、解散した。2年半に及ぶ活動期間で、550の教育機関に3600人の学生を送り出した
メイさんがシラキュース大学に移り学業に戻った後、Tule Lake収容所は危険要因人物専用の収容所に指定されたため、家族はコロラドの収容所に移転した。終戦後、多くの人々と同じくメイさんの家族も、家があったチコには戻らずオハイオ州に新天地をもとめた。メイさんは大学、大学院を経て看護師となり、最後はピッツバーグ大学の看護師として70代後半まで勤務し、引退した。
クエーカー教の季刊誌Friends Journalによると、終戦後、西海岸地域は「何かあったから強制収容されたに違いない」という疑心の目にあふれており、日系人に対する差別偏見の感情が色濃く、残した家財も補償されなかったため、およそ日系人には戻り住みづらい環境だったそうだ。
1988年、政府の公式謝罪と生存者への賠償金支払いが行われたが、多くはすでに亡くなっており、メイさんの両親も亡くなっていた。
メイさんは2011年にミルズカレッジより名誉学位を授与された。これは政府による過ちが40年以上経って是正されたという大きな意味を持つ。
最後に、メイさんの手記の一部を筆者が翻訳したものを以下に記す。(原文:Mills College季刊誌Mills Quarterly、クエーカ―教徒季刊誌Friends Journal)
『私は、強制収容所の体験が我々の人生にどれほど大きな影響を及ぼしたのかを、いまだに実感している。人はこのような自尊心を根こそぎもぎ取られるような扱いを受けると、二度と自尊心を取り戻すことができない。あるいは取り戻せるとしてもそれには非常に長い時間がかかる。自分を弁護する機会すら与えられずに、偏見によって有罪判決を言い渡された結果、失われた信頼を取り戻すにも非常に長い時間がかかる。』
『このような不正がいかなる集団の人にも二度となされないことを望む。残念ながら、不正をおこす力が“過去”そして”現在”のアメリカの暗部として存在するという事実を認識しない限り、同じことが繰り返される可能性がある。』
『私は戦時中のヒステリアを恐れる。しかしまた、平常時にも人々の感情や態度によって真実が容易にゆがめられることを恐れる。真実に対して決して目を閉じないようにしよう。人の命に対する共感と感受性を失わないようにしよう。』
参考サイトおよび文献
●全米日系人博物館ホームページ
http://www.janm.org/jpn/main_jp.html
●アナーバースカイライン高校のLegacy Project作製、メイさんへのインタビュー動画
https://www.youtube.com/watch?v=Y1tRj_umoTk
●2011年ミルズカレッジ卒業式 名誉学位授与 メイさんのスピーチ動画
https://www.youtube.com/watch?v=5gYOkOZEDZg
●クエーカー教徒季刊誌1992年11月号 日系アメリカ人強制収容特集(p.30にメイさんの寄稿文あり)
http://www.friendsjournal.org/wp-content/uploads/emember/downloads/1992/HC12-50881.pdf
晴子